« 国会図書館も変わったものだ | トップページ | 磁気テープの大容量化 »

2005/04/05

戦場という修羅場と心の不適合

日経:私の履歴書:米山稔さん(ヨネックスの会長らしい)の履歴書の記事をちょっと読んだ。“戦争を知らない子供たち”の一人である私には残念ながら実感のない記事だが、修羅場を経験していない人間としての価値を考えてしまった。

戦争はもちろん、やるべきことではないから、そうした修羅場を潜り抜けることを必要としている、必須としているわけではない。しかし、そうした修羅場、極限の状態に置かれた時の経験が、その人間のその後の人生の価値観や環境への対応の仕方などを変えていくのではないかと思う。

別の見方をすれば、そうした修羅場や極限状態を経験していない人間は“弱い”のではないかと感じてしまう。自分がまさにそうだと思う。そうした修羅場を経験しないということは幸せなことでもあるのだが、日々起こるさまざまな心の不適合への対応が弱含みになる可能性が高まるのではないかと感じる。

よく言う、「あれに比べれば、このくらい」ということだ。

下には下があるという気持ちと、これ以上のどん底はないという気持ちはかなり差がある。心は難しい。

« 国会図書館も変わったものだ | トップページ | 磁気テープの大容量化 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

こんにちは!oratakiです。
修羅場というのは個人によってレベルが違うのでしょうが、「かなり苦しい状態」という意味として、やはり修羅場は体験したほうが良いと思います。私も自分なりの「修羅場」を経験しました。それはあとで「耐性」となって役立っています。

たしかにあのときに比べれば、こんなの屁でもないという余裕になったりします。しかし、修羅場というのは自ら作り出すことはできないのです。

天の配剤で与えられるものだと思っています。修羅場を経験しないと成長しないと思っていれば、天は修羅場を与えるでしょう。

oratakiさん

修羅場を希望する人って、なかなかいないでしょうね(^^) 僕は本当の修羅場を経験したことがないような気がするので、天は必要ないと思っているのかな。。。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 国会図書館も変わったものだ | トップページ | 磁気テープの大容量化 »

最近のトラックバック